ランニングは「アイデンティティ」の最もかんたんな証明行為であり、心の救済である

ランニングは「アイデンティティ」の最もかんたんな証明行為であり、心の救済である

社会の中で「何者か」になるというのは、本当に難しいことです。

多くの人が「自分は何者なのか」「本当は何がしたいのか」という問いの答えを探し求めています。 SNSを見れば、やりたいことを仕事にして輝いている人や、確固たるアイデンティティを持って生きている人がいて、少しの羨ましさを感じたりします。

ほとんどの人は、一生懸命探しても「これが私のやりたいことだ」と言えるような情熱や、自分を定義する言葉を見つけられないまま、なんとなく過ぎていく日々に焦りを感じています。

そんな「何者かになりたいけれど」という私たちにとって、ランニングこそが、最も簡単にその空白の一部を埋めてくれる行為なのではないかと思うのです。そしてその救済に人は魅了され、ランニングを続けるのではないかとふと思いました。(もちろん他にも山ほどランニングにハマる理由はありますが、あまり語られていない観点だと思い、取り上げています)

「ランナー」という自己認知の獲得

もちろん、走り始めれば誰でもすぐに変われるわけではありません。合わずにやめてしまう人もいます。 しかし、運動として「あ、意外と楽しいかも」「走れるようになってきたな」と感じられる人は割と多くいます。

そうして続けていくうちに、ある変化が訪れます。 仕事や人生で「何者か」になるには途方もない時間と運が必要ですが、「自分は走れる人間だ」「私はランナーだ」という自己認知は、それに比べれば驚くほどスムーズに獲得できるのです。

やりたいことが見つからず、自分が何者か分からない不安定な日々の中で、「私はランナーである」という確かな手触りは、小さな自信となり、私たちを支える土台になっていきます。

走っている時間は「完璧な自己表現」である

「私はランナーだ、走れる人だ、走るのが好きだ」と認識し、実際にその通りに脚を動かし、息を弾ませている。 思考と行動が完全に一致しているその時間は、紛れもなく完璧な自己表現ができている状態です。

仕事や人間関係の中では、自分を殺したり、演じたりしなければならない場面も多いでしょう。完全に自分らしく振る舞える時間はそう多くありません。 けれど、走っている時だけは違う。 誰に遠慮することもなく、ただ自分であることを全身で表現できる。

だからこそ、その時間は幸福度が極めて高く、私たちはその感覚に魅了されていくのだと思います。

無意識の救済

多くのランナーは、健康のためやダイエットのために走り始めます。 でも、長く続けている人の多くは、知らず知らずのうちに感じているのかもしれません。

1日の中で確かな自己表現を行えるこの時間が、自分の心を救ってくれていることに。 「何者かになりたい」ともがく日常の中で、走ることだけが、自分が何者であるかを確かに証明してくれる行為になっていることに。

意識的であれ、無意識であれ、私たちはその「救い」に触れ、今日もまた走り出すのです。


編集後記

記事を公開する前に、知人にこの原稿を読んでもらったところ、非常に興味深いフィードバックをもらいました。彼は平野啓一郎さんの著書『私とは何か――「個人」から「分人」へ』を引き合いに出し、ランニングコミュニティという場所の意味をこう分析してくれたのです。

ランニング中のコミュニケーションって、平野さんが言う『社会的分人』の中でも、特殊な『ウェットな社会的分人』なんじゃないでしょうか。

平野啓一郎さんの提唱する「分人」という考え方を、ご存知ない方のために少し説明させてください。

平野さんは、たった一つの「本当の自分」なんてものは存在しない、と言います。 対人関係ごとに、親に見せる顔、上司に見せる顔、恋人に見せる顔……と、私たちは無意識に人格を使い分けています。その一つひとつがすべて「本当の自分」であり、私たちという人間は、それら複数の「分人」の集合体である、という考え方です。

その中で「社会的分人」と定義されているのが、仕事相手や街ですれ違う人など、不特定多数の他者と接する時のモードです。 社会を円滑に回すために、礼儀正しく、感情をあまり挟まず、効率的に振る舞う。いわば、トラブルを避けるためのドライな人格のことです。

通常、この社会的分人同士のコミュニケーションは、表面的なものになりがちです。 しかし、知人はこう指摘しました。

ランナー同士の関係は、ベースは利害関係のない『社会的分人』だから、お互いの深い事情には踏み込まないし、面倒な気遣いもいらない。 けれど、一緒に走るという『身体的な苦しさ』を共有しているから、ただの他人よりも深い連帯感(ウェットさ)がある気がしました

ドライな距離感のまま、ウェットな体験を共有している。

これが、私たちが人と一緒に走るときに感じる絶妙な居心地の正体なのかもしれません。

職場のように利害や評価に晒されることもなく、家族や親友のように重たい感情を背負う必要もない。 ただ、お互いが走っているという事実だけで、肯定も否定もせず、そこにいることを許し合える関係。

記事本編では「自分一人で完結するアイデンティティ(内的な救い)」について書きましたが、コミュニティにはそれを補完する「他者による受容(外的な救い)」があります。

「社会的分人」としての気楽な距離感を保ったまま、深い共感で繋がれる場所。 HINODEという場所が、皆さんにとってそんな「都合の良い、愛すべきサードプレイス」であれたら嬉しいです。